本居宣長と江戸時代の医学

028-もくじ・オススメの参考文献-本居宣長と江戸時代の医学

本居宣長と江戸時代の医学もくじ001―序―002―医師―003―儒医1/2―004―儒医2/2―005―杉田玄白の見た江戸時代の医療と―006―薙髮―007―漢意― 008―医学と和歌1/2―009―医学と和歌2/2―010―宣長の症例その1―011―堀景山と宣長1/2 ―012―堀景山と宣長2/2上 ―012―堀…

027-あとがき-本居宣長と江戸時代の医学

享和元年(1801年)に宣長が亡くなり、その後、彼を直接知る人たちも他界してから現在までの約200年の間、宣長が具体的にどのような医者で、どんな医療を行なっていたのかは謎につつまれていました。 今回、宣長の医療帳簿『済世録』を読み解いていく…

026-イアトロジェネシス・医原病-本居宣長と江戸時代の医学

現代ではイアトロジェネシス(iatrogenesis)が大きな問題となっています。 (これは医原病と言ってもいいのですが、ここでは少し広い意味を持たせたいのでこの言葉を用います) 本来は病人を救うはずの医療が、逆に病人を増やしているのは皮肉な話ですね。 大…

025-継続は力なり-本居宣長と江戸時代の医学

問題です。 宣長の学問で最も大切なことは何だったでしょう? それは、才能でも、早期教育でも、学問する時間を十分に持つことでも、知識の量でもありません。 樹敬寺にある宣長の歌碑「しめやかに けふ春雨の ふる言を かたらん嶺の松かげの庵」宝暦十三年…

024-お灸・漢意・もののあはれ-本居宣長と江戸時代の医学

先日、東京は船堀で伝統鍼灸学会・第四十三回学術大会「日本伝統鍼灸の確立 ―よみがえる江戸―」が開かれました。普段お会いできなかったなつかしい先生方と言葉を交わしたり、貴重な講演、お話を聴くことができました。 K先生やN先生の講演にはお灸の話が多…

023-タモリとチウエ (宣長の名の意味)-本居宣長と江戸時代の医学

なぜ宣長は自分の名を「宣長」としたのでしょう。歴史書にも教科書にも、はじめから「宣長」と記されているので、私たちはそう呼ぶことを当然と思い、今まで疑問に感じなかったかもしれません。しかし「宣長」という名にはある意味が隠されているのです。ど…

022―宣長は下女に夜這いをして蹴飛ばされた?(斎藤彦麿について) ―本居宣長と江戸時代の医学

宣長が下女にしつこく夜這いをして蹴飛ばされたという話が残されています。はたして本当でしょうか。この話は民俗学者、中山太郎の『愛慾三千年史』に残されてます。本居宣長ノ宮: 現在は山室山から松坂城址の隣、四五百の森に移転されています○ 国学の大家…

021―宣長とあめぐすり ―本居宣長と江戸時代の医学

宣長は医師として生活しながら、国学の研究にいそしんでいましたが、ある時期からあめぐすりなどの販売をはじめました。なぜでしょう。 再現された宣長飴 製造 柳屋奉善 (おいしい) まず、そのあめぐすりの効能書が残されているので見てみましょう。(多少…

020―宣長と自然治癒力 ―本居宣長と江戸時代の医学

宣長の安永七年の処方傾向をもう一度見てみましょう。 1.(131)12.24% 補中益気湯・参蘇飲 2.(104)9.72% 胃苓湯 3.(90)8.41% 銭氏白朮散 4.(88)8.22% 不換金正気散 5.(70)6.54% 二陳湯 6.(60)5.61% 葛根湯 7.(43…

019― 桜島噴火と風邪 ―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

宣長の処方は基本的にはあまり変わりありませんでしたが、方剤の使用頻度は季節や年によって変化しました。それを見ていくとその時どのような病が流行っていたのか、社会環境がどのような状態であったのか推測することができます。例えば宣長の多用した参蘇…

018― 麻疹(はしか) ―本居宣長と江戸時代の医学

本居宣長は小児科の医師として呼吸器や消化器疾患を主に診ていました。そして還睛丸や目洗薬など眼科の薬も頻繁に用いています。また消毒飲や蝉蛻飲のような皮膚科の薬も用いていました。これは何を意味していたのでしょう。 それは麻疹の治療です。 国立国…

017― 宣長の処方傾向と補中益気湯 ―本居宣長と江戸時代の医学

宣長の残した『済世録』は宝暦八年宣長が29歳の頃から、享和元年72歳の頃までの医療帳簿ですが、現存しているものは以下の一部です。 安永七年 安永八年 安永九年 安永十年(=天明元年) 天明二年 天明三年 寛政四年、五年 寛政六年、七年、八年 寛政…

016― 宣長の症例その3 ―本居宣長と江戸時代の医学

本居宣長の医学の実際の雰囲気をつかむために、また今回も『済世録』から宣長の症例を見てみましょう。本居宣長の自宅兼診療室 (症例1)天明二年 八月十三日西村伝右衛門: 鳥目強し ・還睛丸 三日分十五日 ・還睛丸 三日分 還睛丸は『普濟方』にある処方…

015― 宣長の症例その2 ―本居宣長と江戸時代の医学 (重版)

ここでまた少し本居宣長の実際の症例を見ていきましょう。これらは『済世録』に膨大に残されているもののほんの一部です。治療の方法や成否に係わらず、出来るだけ無作為に、しかしなるべく患者の情報が記載されているものを選びご紹介します。 (症例1) …

014― 伊勢神宮と神道医学―本居宣長と江戸時代の医学 (重版)

伊勢神宮には独特の医学が残されていたようで、それは神宮医方と呼ばれています。(1) 室町時代には「神宮医方十書」が著されており、例えばそのうち『管蠡備急方』が久志本常光(1540-1541年)によって編纂されています。その内容は『三因方』、『千金方』、…

013―堀景山と宣長2/2下 ―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

宣長は平素、書斎「鈴の屋」に堀景山が『唐詩選』から選んだ詩、「春思」や「上皇西巡南京歌の軸を掛けており、賀茂真淵の命日には「県居大人之霊位」と自ら書いた軸を掛けていたと伝えられています。*1 宣長は宝暦二年三月に京に上って景山の弟子となりま…

012―堀景山と宣長2/2中 ―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

前回、宣長の筆写した景山の『不尽言』をご紹介しましたが、今回は宣長が写した場所を示します。箇条書きの全文のうち、写さなかった箇所を小文字にして、色を薄く表示します。なぜこのような一見無駄な、非効率的な方法を選択したのかというと、宣長の理解…

012―堀景山と宣長2/2上 ―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

宣長は堀景山の『不尽言(不盡言)』を筆写しました。この書は、景山は安芸公に仕えていましたが、その藩の重役、岡本貞喬からの質問状に答える書簡の形式をとっています。ここでは、宣長がそのどこを写したかについては触れずに、この『不尽言』にはどのよ…

011―堀景山と宣長1/2 ―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

宣長には三人の尊敬する師がいました。一人は堀景山(儒学)、一人は武川幸順(医学)、そして賀茂真淵(古学)です。なぜこれらの三人なのか、他にも医学を教わった堀元厚や諸々の歌の先生を数えても良いのではないか、という意見もあるかもしれませんが、…

010―宣長の症例その1―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

宣長は、「意(ココロ)と事(ワザ・コト)と言(コトバ)とは、相応しているものなので、後世において、古の人の思える心、為した事を知ることで、その世の有り様を正しく知るべき*1」であると言いました。宣長の言葉だけを捉えて彼を理解しようとするのは…

009―医学と和歌2/2―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

宣長は、いわゆる後世方医学を学びましたが、その基礎理論である陰陽五行論などを漢意として真っ向から否定しました。また、いわゆる古方派医学も学びましたが、「古方をもって今の病を概すはもとより不可なり」と言い、それでいて後藤艮山風の医師を目指し…

008―医学と和歌1/2―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

伊勢は松阪、蒲生氏郷の築いた松阪城跡の一角に本居宣長記念館があります。そこには宣長の使用していた往診用の薬箱(久須里婆古)が展示されています。宣長はこれを持ち歩き医業に励んでいたのですね。 さて、この薬箱の中には薬包がきちんと整理されて、一…

007―漢意―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

宣長のいたころ、朱子学が官学になり日本に普及したころ、学問と言えば中国から入ってきた儒学のことであり、世の中の事すべてを、日本の神話や和歌なども陰陽論や五行論で説明しようとする風潮がありました。例えば、和歌が五七五・七七の文字で成り立って…

006―薙髮―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

前回、宣長がどのような医師になろうとしたのか明らかにする鍵が「稚髮(薙髮)」にあると言いましたが、それはなぜでしょう。結論から先に言ってしまえば、宣長が京都留学中に記した『在京日記』にこうあるからです。 宝暦五年 三月三日 稚髮を為し、名を更…

005―杉田玄白の見た江戸時代の医療と―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

宣長が儒学や医学を学ぶために京へ留学していた時代は、医学史上の様々な出来事が起きた時代でもありました。宣長が勉学中のすぐ近所で、日本初の医学的な解剖が山脇東洋によって行われ、吉益東洞は「万病一毒論」を主張してその門弟を増やし、旅先で亡くな…

004―儒医2/2―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

堀景山と荻生徂徠は親交がありましたが、徂徠は景山への書簡の中で徂徠の父荻生方庵が杏庵に会った時のことを記しています。 「私が幼年の時、このことを先大夫に聞きました。昔、洛(京都)に惺窩先生という者がいました。其の高第の弟子、羅山、活所諸公の…

003―儒医1/2―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

徳川家康が覇権を握りつつあった時代になると儒医が誕生し、江戸時代に入るとそれは爆発的に増加して医師と肩を並べるほどになり、そして明治時代には消え去りました。では儒医の誕生はなぜその時代だったのでしょうか。 それは豊臣秀吉が文禄・慶長の役を起…

002―医師―本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

私たちが宣長がどのような医師であったかを知ろうと欲する時によく行う方法の一つはその肩書きを調べることでしょう。例えば彼は小児科医であったとか、後世方派の医師であったなどとも言われていましたが、それは真実でしょうか。またそれで理解したことに…

001-本居宣長と江戸時代の医学 (修正版)

(文字化けなどの修正版です) 前回まで貝原益軒の『養生訓』(総論上・下)の解説を連載してきましたが、これもまたその続きです。と言っても焦点は儒学者である益軒から国学者である本居宣長に移ります。 益軒と宣長はどちらも医師でもありましたが、彼ら…

015-本居宣長と江戸時代の医学― 宣長の症例その2 ―

ここでまた少し本居宣長の実際の症例を見ていきましょう。これらは『済世録』に膨大に残されているもののほんの一部です。治療の方法や成否に係わらず、出来るだけ無作為に、しかしなるべく患者の情報が記載されているものを選びご紹介します。( 010-本居宣…